たぶん、私がアメリカで研究者としてのトレーニングを受ケタということもあるのでしょうけどね。
社会科学というものが果たす役割とは何かと考えた。 ある問題に気が付いたからには、研究者としての関わり方があるはずだ、と。
運動家でもないし、ましてや、教育実践のやり方を編み出せる実践家でもないのだから。 社会の大きな変動をつかもうとする意識を持って、トレント=趨勢というよりも、もっと構造的な変化も含めて、日本の旧来の制度や社会のあり方の耐用年数が、あと何年ぐらいなのかを考えよう、という意識があったのですよね。
今も、カウントダウンは止まったわけではなくて、依然として続いている。 教育について言えば、改革のほうはますますねじれてきて、複雑になっている。
ところが、議論のほうは、むしろ、あれかこれかの単純な振り子のようになっている。 あるいは、本来論じられるべきことがまだまだ論じられていない。
そういう中で、教育改革や公教育への不信感が募り、閉塞感がみなぎる。 でも、みんなあきらめてしまったら、それでおしまいじゃないですか。

ある時点までは、危機意識というのは必要だと思う。 とくに教育改革の議論では、まさに振り子のように、一方からの強い風が吹くと一斉にそちらに振り子が振れていく時期が長かった。
詰め込み、受験教育か批判されていた頃は、ともかく、その改善をめざす改革は諸手をあげて賛同を得た。 楽観的すぎても、批判が出てこなかった。
だから、問題提起をするわけですよね。 『危機を煽っている』と批判されたこともありますが、ある意味では、意図的だった。
危機の存在自体が認識されないというのか私の見方でしたから。 それこそが危機的だった。
だから、私自身は、煽動しているとはまったく思わなかったけれど、外から見たら何でこんなタイミングでこんなことを言うのか、という印象はあったでしょうね。 それだけ、教育改革への賞賛一色だったから。
だけど、私の中では時計は動いていたわけですよ。 カウントダウンが進んでいた、止まらずにね。
議論の筋道か、4年前に比べれば少しは風通しがよくなっているにしても、まだまだ問題の本質には行き着いていない。 あと何年かで財政が破綻して、ハイパーインフレか起きるかもしれない。
経済学者でも財政学者でもないからわからないけれど、国民負担が相当きつくなるか、あるいは財政支出が相当窮屈になるか、そうなった時に、日本の公教育はどこまでの人びとがセーフティーネットたりうるものになっているのかはヽ今のところまだ不明ですよね。どういう危機が訪れるかということについて今、切実に考えています。

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